記事: 台高・絵馬小屋谷|強がらなくていい
本当は別の沢へ行く予定だった。
その沢は下山を短縮するため、車を一台上へデポする計画だった。しかし、その車を担当する予定だったタクヤが仕事の都合で来られなくなった。
その時点で当初の計画は難しくなる。
山では珍しいことじゃない。
集まるメンバーが変われば、行き先も変わる。
急遽転戦先に選んだのは、台高山脈・絵馬小屋谷。
以前にも遡行したことのある沢だ。
ここには「行合」と呼ばれる巨大なゴルジュと、「五ヶ所滝ゴルジュ」と呼ばれる、日本でも屈指の異様な景観がある。
ずっと島根ブラザーズに見せたいと思っていた沢だった。
ただ、この沢は下山が長い。
それが理由で、なかなか足が向かなかった。
今回は少し考え方を変えた。
五ヶ所滝を越えたら山頂まで詰めず、手前の尾根から下降する。
地形図を眺めていると、それで十分帰れそうに見えた。
もちろん机上の予想だ。
でも、地形図を見ながらルートを組み立てる時間も沢登りの楽しさの一つである。
今回のメンバーは、シンさん、ミッシー、マイケル、そして自分。
前回と同じように前日の夜は我が家へ集まり、そのまま前泊。
翌朝、4人で台高へ向かった。
天気予報は雨だった。
ところが現地では時折パラつく程度で、雲の切れ間から日が差す時間もあった。
沢へ降りる。
台高特有の深い森。
昼間なのに薄暗く、湿った空気が谷を包んでいる。
巨大な岩の間を水が勢いよく流れ、その音が谷いっぱいに響いている。
「ああ、台高へ来たな。」
自然とそんな気持ちになった。
相変わらず岩は大きい。
両手を使いながら巨岩を越え、ときにはショルダーで身体を押し上げて進んでいく。

しばらく歩くと、谷の雰囲気が変わった。
目の前に現れたのは「行合」。
この沢を代表する景観だ。
両岸には高さ50m近い岩壁がそそり立ち、その巨大な岩壁が一番狭いところでは、わずか2mほどまで迫ってくる。
思わず声が出た。
何度見ても、この景色だけは異様だ。
写真を撮る。
動画も回す。
でも、何度撮っても伝わらない。
岩壁の高さでもない。
谷の狭さでもない。
巨大な岩壁が頭上へ覆いかぶさってくるような圧迫感。
岩壁に反響する水音。
そのスケールの中に立つと、自分が驚くほど小さく感じる。
その場に立って初めて分かる景色がある。
ここは間違いなく、その一つだ。

ところが、これだけの絶景なのに通過は拍子抜けするほど簡単だった。
ゴルジュの中は歩きやすいゴーロ帯。
景色を堪能しながら、そのまま先へ進む。
やがて現れたのが、この沢最大の見どころ、五ヶ所滝ゴルジュだった。
五ヶ所滝と呼ばれているが、正直どれが「五ヶ所」なのか今でもよく分からない。
それくらい地形が複雑だ。
岩が折り重なり、水が何本にも分かれて流れ落ちる。
そして、その中心には螺旋を描くように落ちる滝。
沢人生の中でも、これほど異様な形をした滝は見たことがない。
自然が何百年、何千年という時間を掛けて削り出したとは思えないほど、不思議な造形だった。

前回来た時、この滝の正面には一本のクラックが見えていた。
「登れそうだ。」
そう思って取り付いたものの、離陸すらできず敗退。
結局その時は別ルートから突破した。
今回は、そのクラックを登る。
最初に取り付いたのはミッシーだった。
今回はアブミを持ってきている。
それを使って離陸し、順調に高度を上げていく。
中間付近まで登ると、カムをセット。
「行ける。」
下から見ていても、そう思えた。
でも、その先の一手が出ない。
腕が限界だった。
少し粘ったあと、自分から身体を離し、そのまま釜へ落ちた。
惜しかった。
続いて自分。
同じように中間付近までは順調だった。
「行ける。」
そう思った次の瞬間だった。
腰にぶら下げていたタワシのランヤードがロープへ絡まる。
体勢を立て直そうにも、どうにもならない。
そのまま釜へ落ちた。
「こんなことで。」
思わず苦笑いした。
もう一度挑戦する。
今度こそと思った。
でも、また同じだった。
ランヤードがロープへ絡まり、身体が止まる。
結局、二度とも敗因は自分のクライミングじゃなかった。
だから余計に悔しい。
腕も完全に使い切っていた。
諦めてマイケルへ交代する。
ミッシーも、自分も越えられなかったラインを、マイケルは多少苦戦しながらも確実に抜けていく。
特別派手な登りじゃない。
必要なところで止まり、考え、プロテクションを取り、一つずつ積み上げていく。
気が付けば突破していた。

ロープが下りてくる。
次はシンさんの番だ。
ホールドはある。
でも、見た目ほど簡単じゃない。
目の前にはロープが垂れている。
だから、つい手が伸びる。
もちろんロープを掴めば、その分だけ腕力に頼ることになる。
徐々に動きが止まり、腕が悲鳴を上げ始める。
下から見ていても苦戦しているのが伝わってきた。
マイケルがお助け紐を垂らす。
それを使いながら、長い格闘の末にようやく登り切った。
その頃には、自分の身体にも異変が起きていた。
最初は少し寒いなと思う程度だった。
でも違った。
震えが止まらない。
リードで二度釜へ落ちたことに加え、シンさんのフォローを待つ間も滝の風を浴び続けていた。
身体の熱が、どんどん奪われていく。
ようやく自分の番になった。
さっきのリードで腕は使い切っている。
それでも登るしかない。
途中までは何とか登れた。
しかし目の前にあるロープへ手が伸びる。
シンさんと同じだった。
ロープを掴めば楽になるように思える。
でも実際は逆だ。
腕だけで身体を引き上げることになり、さらに消耗していく。
途中の支点でセルフを取り、マイケルが設置してくれたお助け紐も借りながら、一手ずつ身体を上げる。
なんとか登り切った。

でも震えは止まらなかった。
手が震える。
足も震える。
歯までカチカチと鳴っている。
「寒い」というより、自分の身体じゃないような感覚だった。
マイケルがすぐに熱いお湯を渡してくれる。
ありがたかった。
一杯飲む。
少し待つ。
止まらない。
もう一杯飲む。
深呼吸してみる。
それでも止まらない。
三杯目を飲み終えても、身体は震え続けていた。
ここまで震えたのは初めてだった。
「これはちょっとおかしい。」
そう思った頃には、ミッシーもシンさんもオレの異変に気付いていた。
本来なら、このまま沢を最後まで詰める予定だった。
でも誰ひとり「もう少し頑張ろう」とは言わない。
「ここから尾根へ上がって帰ろう。」
その一言で予定は変わった。
少し歩くと踏み跡らしきものが現れた。
沢では珍しくない。
でも、それが何なのかは歩いてみないと分からない。
下山路なのか。
巻き道なのか。
作業道なのか。
地形図とGPSを見ながら予測し、進むか戻るかを判断する。
これも沢登りの面白さの一つだ。
しばらく進むと、踏み跡は沢と平行に延びていた。
ただ、かなり急な斜面をトラバースしている。
このまま進むくらいなら、一度沢へ下りて来たルートを下降した方が安全だ。
全員の意見が一致した。
その頃には、不思議と震えは止まっていた。
ただ、身体の力は残っていなかった。
消耗しているのが自分でも分かる。
沢へ戻ってしまえば難しい場所はほとんどない。
来たルートを辿り、無事に駐車スペースへ戻った。
幸い、目的だった景色は全部見ることができた。
行合も、五ヶ所滝も、十分満足できた。
それでも、正直少しだけ申し訳ない気持ちはあった。
記憶にある限り、自分が原因で山行を途中で終えたことはない。
それでも、自分が原因で予定を変えさせてしまったことには、少なからず罪悪感があった。
もう少し我慢すれば歩けたかもしれない。
最後まで遡行できたかもしれない。
でも、誰ひとり「もう少し頑張ろう」とは言わなかった。
オレの様子がおかしいと気付くと、迷わず山行を終えることを選んでくれた。
あの場で必要だったのは根性じゃない。
無事に帰るという、ごく当たり前の判断だった。
きっと一緒に歩く相手が違っていたら、オレは強がっていた。
「大丈夫です。」
本当は大丈夫じゃないのに、そう言っていたと思う。
今回は強がらなくてよかった。
だから最後まで笑って帰ることができた。
駐車スペースへ戻り、沢装備を片付けていると、シャツを着ようとしたミッシーが背中を気にした。
見ると、背中にはヒルが一匹。
しっかり吸血されていた。
大峰や台高では珍しい話じゃない。
ただ、いつもならやられるのはオレだった。
他のメンバーが無傷でも、なぜかオレだけ吸われる。
そんなことが何度も続いていた。
だから今回も、どうせ最後はオレだろうと思っていた。
ところが今回は違った。
吸血されたのはミッシー。
しかも背中。
オレは珍しく無傷だった。
こんなこともあるらしい。
みんな翌日も休みだったので、そのまま我が家へ戻って後泊した。
翌朝。
全身が悲鳴を上げていた。
自分だけかと思い、ミッシーとシンさんに聞いてみる。
二人とも見事に筋肉痛だった。
少し安心する。
マイケルにも聞いてみた。
「全然大丈夫ですよ。」
らしい。
やっぱり次からは、もう少し働いてもらおうと思う。
KEI FUJIMOTO
Founder / Art Director / 週末冒険家
THUNDER BIRD HILLS代表。15年以上にわたり登山を続け、実地テストを重ねながらギアを開発。YouTube「THUNDER BIRD HILLS」ではフィールド・ドキュメンタリーを発信している。